2010.12.25 |
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運が良いと思った人は運が良い |
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小林正観氏の心に響く言葉より…
もともと宇宙的には「運命」に良し悪しというものはありません。
私たちは、自分で「運がいい」「運が悪い」などと、勝手に決めているだけです。
自分の認識いかんによって「運命」の見方も変わります。
ですから、「運」が良いと思った人は「運」が良いのです。
「運」が悪いと思った人は「運」が悪いのです、宇宙的には運の良し悪しはありませんが、
それを自分で決めることはできるのです。
よく引き合いに出す話ですが、経営の神様と謳(うた)われた松下幸之助さんは、
若い頃、大阪の築港というところから埋立地にある会社まで小船で通っていました。
ある夏の日の夕方、会社から帰ってくるときに、船べりに腰を下ろして足をぷらぷらさせていました。
そこにある船員が船べりを右に左に均衡をとりながら歩いてきて、幸之助さんをまたいで通ろうとしました。
ところが、その船員が足を滑らせて落ちそうになってしまったのです。
そのとき、船員が目の前の幸之助さんの体をつかんだために、
幸之助さんと二人でドブンと海に落ちてしまいました。
このことを幸之助さんは、後世こんなふうに周りの人に語っています。
「わしは運が強かった。
もし冬の寒いときであったらたぶん助からなかった。
夏の日に落ちて幸運だった。
わしは運が強かった。
さらに船長がすぐに気がついて引き返してくれたので助かった。
わしは運が強い」
「運が強い」とは九死に一生を得たような場合に使う表現ですから、
幸之助さんが「運が強い」というのもわかります。
しかし、本当に「運」が強いという人は、たぶん海に落ちたりはしないものです。
海に落ちるという経験は大変珍しいもので、
一生涯船から海に落ちたことがないという人がほとんどのはずです。
幸之助さんはいろんな局面に出会いながらも、
ずっと「わしは運が強い。わしはラッキーである」といい続けた人だったようです。
どんな不運に見舞われても「自分は運が強い」「幸運でラッキーだ」「ツイてる」
といい続けている人には、「運」が付いて回ってくるのではないかと、
幸之助さんの周りの人は考えさせられました。
『運命好転 十二条』五月書房
小林正観さんは、本当に「運」が良い人、「幸運」が続いている人は、
何も起きずに平穏な日々がずっと続く、という。
それは、健康であったり、普通に食べられること、普通に出勤ができること、
普通に仕事ができること、普通に歩くことができること、等々だ。
これこそが、最高の「運」の極みで、幸運な人は何も起きない、と。
何も起こらない平凡な日々と、当たり前の日常に感謝ができる人は、幸せな人だ。
そして、アンラッキーなことにも感謝できる人は、もっと幸せな人だ。
自分が運が悪いと思えば、運が悪い。
運が良いと思えば、運が良い。
世の中は単純にできている。
「自分が考えた通りの自分になる」、とはよく言われることだが、まさに運もツキも同じ。
誰もが不運だと同情するような状況にあっても、まわりに感謝し、
「自分は運が強い」と思えるような人でありたい。 |
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