2010.12.21 |
|
手放すこと |
|
五日市剛氏の心に響く言葉より…
新潟県のある主婦の方から、こんなお葉書をいただきました。
「失う」のではなく「手放す」
若さも 健康も 愚かさも 愛しさも 何もかも…
「健康を手放す」ことが「不健康になること」だったり、
「若さを手放す」ことが「老いること」なのではなくて、それは「執着」しないことだ、と気づきました。
自我を手放すとでもいうのでしょうか。
健康も若さも愚かさも愛しさも何もかも手放した状態。
それは一番「神」に近い状態では…。
あるいは「生まれたての状態」。
限りなくピュアになること、なのかもしれませんね。
そんな気持ちで生きられたら、何のストレスもなく、幸せだろうなぁ…と思います。
「人は自分以外のもののために生き始めたときから、本当の人生が始まる」という言葉があります。
恐らく我々は、誰かのために何かを一生懸命しているとき、しかも見返りを一切期待せず、
それを心から喜んでしているときに、いちばん自分を手放せるのではないだろうかと思います。
本来、人というのは、自分を本当に必要としている何かのために生きたいものです。
『しあわせへの気づき』とやの健康ヴィレッジ
我々は往々にして、誰かに何かをしたとき、
「報告がない」とか「お礼の連絡がない」とか、見返りを求めてしまう。
見返りを求めなければ、相手に対する行為はより一層輝くのに、そのひと言で台無しになってしまう。
「かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻む」
という言葉があるが、「かけた情け」は手放さなければならない。
禅では、手放すことを「放下著(ほうげじゃく)」という。
しがらみや、こだわりを、「捨てろ」、「忘れてしまえ」、「ほうり投げろ」、だ。
若さも、健康も、愚かさも、愛も、憎しみも、それに執着しないこと。
執着しているときは、ベクトルが自分を向いている。
自分のベクトルが外に向っているときは、「人を喜ばせよう」としているとき。
見返りを期待せず、世のため人のために生きることができたら、最高の人生となる。 |
|
|