2010.12.14 |
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生前(せいぜん)という言葉 |
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小林正観氏の心に響く言葉より…
「生前(せいぜん)」という言葉があります。
「生まれる前」と書きます。
「生前、あのかたが使っていたものです」というような使い方をします。
意味としては、「生きていたとき」「死ぬ前」ということです。
常識的に考えると、「死前」と書かなくてはいけないはずでした。
似た言葉に、「大往生(だいおうじょう)」という言葉があります。
「往生」は死ぬこと、「大往生」は「安らかに穏やかに死ぬこと」です。
「往生」は、「生(の世界に)往(ゆ)く」と書きます。
これも、本来なら、「往死」「死(の世界)に往く」と書くべきところでした。
どうも、昔の人たちは、「あの世」があると思っていたようです。
さらに、「あの世」のほうが「ほんとうの生」の世界であって、
こちらの世界は「仮の世」と思っていた節があります。
『幸も不幸もないんですよ』マキノ出版
お葬式などで、遺族から、「生前はお世話になりました」という挨拶はよく聞く。
しかしながら、よく考えると、「生前」ではなく「死前」の方が正しいような気もする。
生前は、「生まれる前」で、つまり仏教の輪廻でいう、前世(ぜんせい)のことだ。
生まれる前の世界がある、という考え方は、
「前世を記憶する子供たち」、「臨死体験」というような本で多く発表されている。
斉藤一人さんは、目に見えない世界は大事だ、しかしそれにのめり込んではいけない、という。
「高い崖(がけ)から身を乗り出して、下をのぞいているとき、
二、三割くらい体を乗り出すなら崖から下には落ちない。
しかし、七、八割も身を乗り出してしまうと、崖から下に落ちてしまう」
目に見えない世界、魂の世界は信じないより信じたほうがいい。
人間の幅や、厚みや、深みが圧倒的に違ってくるからだ。
しかし、あまりその世界に入り込みすぎると、自分を見失ってしまう。
我々が生きているのは、この現世(げんせい)であり、ここでの修行や行動が一番大切だからだ。
禅では、それを「今、ここ」すなわち「即今(そっこん)」という。
もしかしたら「あの世」が本当の世界で、「この世」は仮の世なのかもしれないが、
だからこそ、「今ここ」を力の限り精一杯生き、世の中のお役に立つことをする必要があると思う。 |
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