2010.12.13 |
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受け取らない修行 |
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中野東禅住職の心に響く言葉より…
お釈迦さまと弟子たちが托鉢して歩いているときのこと、ある町民が文句を言ってきました。
「おまえたちは托鉢と言いながら、人に物をもらって生きているではないか。
俺たちはこうして額に汗して働いているのに」
と、お釈迦さまは延々と続く文句を黙って聞いていました。
やがて町民が言い疲れて黙ると、お釈迦さまはやおら口を開きました。
「言いたいのはそれだけですか?」
「そうだ」
「じゃ、さようなら」。
そんなやりとりで、一行はその場を立ち去りました。
しかし、弟子たちは納得がいきません。
「お釈迦さま、どうして黙っていたのですか」と詰め寄ります。
お釈迦さまは言いました。
「おまえたちは、誰かが毒蛇を持ってきたら受け取るのか」
「まさか、受け取るわけがありません」
「受け取らなければ、その毒蛇は誰のものになる?」
「持ってきた人がそのまま持ち帰るしかないでしょう」
「そうだろう。だから先ほど私は悪口という毒蛇を受け取らなかったのだ。
悪口という汚れた心は、あの人が持って帰ったのだよ」
『名僧の一言』知的生き方文庫
「天に唾(つば)する」という言葉がある。
天に向って唾(つば)を吐(は)けば、唾は自分の顔に降りかかる。
「悪事身に返る」ともいい、自分の犯した悪事はめぐりめぐって自分に返り、
やがて自分を苦しめることになる。
誰かに面(めん)と向って、非難されたり、罵(ののし)られたりすると、心中は穏やかではない。
いつまでも傷(きず)となって残ってしまうこともある。
しかし、我々には、言葉も、態度も、「受け取らない」という選択がある。
聞き流したり、よけたりするのだ。
真面目なひとは、毒でも受け取らなければならないと思い込んでいるが、
吐いた毒は、誰も受け取らなければ、自分で持って帰るしかない。
ときには、ニコニコ笑って「受け取らない」、という修行も必要だ。 |
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