2010.8.5 |
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錆(さ)びた人 |
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境野勝悟氏の心に響く言葉より…
老子の老には非常に深い意味があります。
老と言えば老いるとなりますが、これはあとから出てきた意味で、
もともとは錆(さ)びるという意味です。
老人は錆びた人、老師とは錆びた人格者、というわけです。
それでは、なにが錆びるのでしょうか。
錆びるとは腐ってしまうことです。
なにが腐ってしまうのか。
若いときからずっと持っていた我意識と善悪の価値観、
これがいいあれが悪いという分別心、愛憎、それらが腐ってしまうのです。
こういう対立的な分別を我といいますが、我を腐らせてしまうと、
思わず大局的な新しい価値観が生まれます。
それが錆びる人、老子というわけです。
我が腐ってしまうのですから、これは無我です。
「老」は、無我とまったく同じことなのです。
無我というのは我をなくせということではなく、
世間でいわれている分別、善悪の価値にこだわるな、我にこだわるなということです。
禅の老師とは、錆びた人、世間の分別や価値にこだわらない無我を身につけた、
完成された人が老師です。
つまり、老は完成を意味しているのです。
老いることはいいことなのです。
『老荘思想に学ぶ人間学』致知出版社
多くの心理学のゴールは、自律することだ。
つまり、成熟した大人になること。
日本では、とかく若さを絶対視する傾向が強いが、ほんとうはそうではない。
もし、若さが絶対だとしたら、年をとることは悪となり、
若い時に死んだ方がいいということになってしまう。
若さとは、ある面で未熟であり、浅く、表面的だ。
成熟した大人とは、どっしりとして重みがあり、落ち着いて深さがある、無我の人だ。
しかし、昨今では老人になってなお、未熟で子供のままの考え方の人がいる。
まったく成長のなかった人たちだ。
年をとると、我意識と善悪の価値観、これがいいあれが悪いという分別心、
愛憎が腐ってしまうというのは、禅の「両忘(りょうぼう)」の考え方だ。
「両忘」とは、すべての対立概念を捨てること。
善と悪、愛と憎、美と醜、有と無、生と死、という二元対立の概念を捨てる。
死ぬことを忘れ、なお生にも執着しない。
「やがて死ぬ けしきは見えず 蝉(せみ)の声」(芭蕉)
蝉は地中で、約7年を過ごし、地上に出てほぼ1週間の儚(はかな)い一生を終える。
しかし、蝉は、死の直前まで、死ぬそぶりも見せず、鳴き続ける。
死ぬ直前まで、まるで何事もなかったように、精一杯生きる。
年を重ねるごとに、我にこだわらない。
そんな、錆びた人でありたい。 |
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