2010.8.2 |
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美学を貫く |
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映画監督の、押井守(おしいまもる)氏の心に響く言葉より…
現代の日本では「名声」「お金」、そして美しく生きるという「美学」の三点で、
何を大事に生きていけばいいのか。
結論から言えば、それは美学をおいてほかにはない。
名声とお金は、相対的な評価だ。
偉い人といっても、どのくらい偉いのか、という問題がある。
会社の社長が偉いのか、大臣か、医者か、それとも映画監督か。
金持ちといったところで、ビル・ゲイツぐらいの大金持ちから、
小金持ちまでさまざまであって、ここから先が金持ちという線引きができるものではない。
ところが、美学だけは、どこの誰とも比較されるものではない。
美学は本人だけのものであり、自分の生き方が美しいかどうかは、
自分で判断するしかないのだ。
それは、自分だけの価値を見つけるということである。
ITバブルで大もうけして、その後、失墜していった人々がいた。
彼らがなぜ失敗したかというと、お金を目的としてしまったからだ。
起業した初期のころは知らないが、彼らは美学を失ってしまったのだ。
だから、大切なことが見えなくなり、道を誤った。
美学を貫いていれば、いつの間にか名声やお金は付随的に発生するものだ。
仕事で成功すれば、結果的に富と名誉を得ることができる。
しかし、初めから富と名誉を得ることだけを目的としては、道を誤る。
「美学」とは、もちろん自分で決めるルールである。
しかし、それは自分が許せば何でも許される、というものではないはずだ。
自分勝手なものではいけないということだ。
その美学が社会的に認知、公認されるかどうかは、とても重要な要素になる。
絶えず自分の美学が理にかなっているかどうかは点検する必要がある。
僕の場合は、次に誰からも仕事の依頼が来なくなったら、
「これはヤバイぞ」ということになるだろう。
『凡人として生きるということ』幻冬舎新書
美学とは、ある種のやせ我慢だ。
「皆が行っても、自分だけは行かない」とか、「どんなに儲かろうが、それだけはしない」、
というような自分だけの基準。
藤原正彦氏の言う、「卑怯な振る舞いをしない」、「弱いものをいじめない」、
「惻隠の情」などの価値観に通じるものがある。
「名声」や「お金」がちらつくと、凡人はつい、自分の節を曲げ、
目の前の利益にフラフラとしてしまう。
それをはねのけるには、自分なりの堅固な美学が必要だ。
それを貫ける人は、傍(はた)から見ていて非常に美しい。
バブルの頃、多くの人が株や土地で儲けたのに、
頑としてそれらには手を出さなかった人たちがいる。
その後、バブルがはじけ、ほとんどの人が大損をした。
そういうときになって、はじめて、かたくなに手を出さなかった人たちが評価される。
すなわち、美学を持っていた人たちだ。
美学を貫いても、それがすぐには評価されないことが多い。
長きにわたり、人から批判され、馬鹿にされても、美学を貫くことができるのか。
美学はその人の生き方そのものだ。 |
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