2010.5.28 |
|
引用ができる人は教養人 |
|
斉藤孝氏の心に響く言葉より…
いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、
血をもって書かれたもののみを愛する。
血と寸鉄の言で書く者は、読まれることを欲しない。
そらんじられることを欲する。
《ツァラトゥストラ》ニーチェより
「わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する」とニーチェはいう。
血とは精神である。
人の血を理解するには、ただ読書するだけでは足りない。
人は普通、ただことばを聞いたり読んだりすれば理解できると思っている。
ところが、読んだ一冊から何か引用してみてくれというと、
ほとんどの人は一行もそらんじることができない。
ニーチェは、それは読書をする怠け者だ、
そらんじることもできないでわかったつもりになるなと叱る。
教養とは本をどれだけ読んでいるかということ以上に、どれだけ引用できるかということだ。
私は、コミュニケーションの場面で適切な引用ができる人は教養人だと思う。
『座右のニーチェ』光文社新書
古来、日本の教育は論語や、四書五経などの素読(そどく)が主であった。
素読とは、本の内容などの意味など考えず、
声に出してただひたすら読み上げることだ。
現在では、またその重要性が見直され、安岡正篤師の孫、
安岡定子(さだこ)さんたちが「こども論語塾」等で活躍している。
素読することで、漢文独特の美しいリズムが、声を通して身体や心にしみこむ。
繰り返し読むことにより、やがてあるとき、言葉がふっと口をついて出てくるようになる。
「門前の小僧習わぬ経を読む」だ。
お寺の庭や廊下で掃除をしている小僧さんが、
和尚があげているお経を毎日聞いているうちに、
別に習ったわけでもないのに、自分もお経を覚えてしまう、ということ。
自分の身についた文章なり、フレーズは引用できる。
安岡正篤師は、リーダーなら何か気のきいたひと言を発しなければ駄目だ、と言った。
まさに、昨今のリーダーの言葉が軽くなったのは、
人をうならせるアフォリズムの引用がないからだ。
アフォリズムとは、物事の本質を鋭くついた言葉や、警句、箴言(しんげん)。
ニーチェはこのアフォリズムを得意とする思想家だ。
一夜漬けに覚えた引用の言葉は軽いが、身についた言葉は重い。
お経でも、祝詞(のりと)でもいい、
どんなときでも、さっと言葉が出てくるよう、毎朝素読を続けてみたい。 |
|
|