2010.5.6 |
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人間の器量 |
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慶応大学教授の福田和也氏の心に響く言葉より…
人間の見方が、薄っぺらになっている。
そう感じることは、ないでしょうか。
人を測る物差しが、一本か二本ぐらいしかない。
能力があるか、ないか。
感じがよいか、嫌か。
いい人か、悪い奴か。
女性問題ではたしかに失敗したが、それでも経営者としてはたいしたものだ、とか。
金には汚いが面倒見はよいとか、そういった鑑定ができない。
人というのは、複雑で多面的な存在で、そうそう簡単に切り捨てられるものではない、
という当たり前のことが、今の世間から、完全に抜け落ちているのです。
一刀両断するとしても、何らかの含蓄が欲しいものですね。
昭和の恐慌を二度にわたって救った稀代の財政家、高橋是清は、
政治家としての能力はほとんどゼロで、二度総理になったけど、
ごく短期間で政権を放りだしている。
女にはだらしないし、政治家としてはまったく頼りにならないけど、
この老爺が大蔵大臣をしているかぎり、景気は悪くならない、
物が売れるし、給料は上がると市井の人は知っていたからです。
今日の世間に是清が生きていたら、女性問題だけでボロボロにされてしまうでしょう。
表舞台に登場することすら出来ないかもしれない。
役に立つというだけでなく、個人の枠、背丈を超えて、人のために働ける人。
何の得にもならないことに命をかけられる。
尋常の算盤では動かない人間。
その一方で、妙に金銭には細かかったりして。
誰もが感動するような美談をふりまくかと想えば、辟易するような醜行(しゅうこう)をする。
通り一遍の物差しでは測りがたいスケールをもっているということ、
それが器量人ということになるでしょう。
『人間の器量』新潮新書
人物をつくるには、闘病生活や、倒産や、投獄といった、
極限を乗り越えなければならないという。
現代日本では、戦争や、飢餓や、極貧の体験をすることはほとんどない。
かつての、日本には、それらが普通にあった。
人は、極限状況を体験すると、死を意識する。
死を意識したとき、人は生を濃密に生きようとする。
死の覚悟ができ、生への覚悟もできる。
「何のために生きるのか」、という覚悟だ。
死線をくぐった人は、肚(はら)ができる。
ことがあっても、動じない。
また、その器量人を受け入れる方も今では、おおらかさがなくなってしまった。
些細(ささい)なことをあげつらい、木をみて森をみない。
葉の先ほどの小さな失点や、欠点をとりあげ、大局を論ずることがない。
政治家だけでなく、官僚も、経営者も、角がなく、
難のない丸い人間ばかりが表に出ている。
しかし、国家の一大事、会社存亡の危機には、無難な人間は役に立たない。
人のため、国のために一身を投げ出せる人。
損得では動かない人。
しかし、欠点もある。
そんな器量人に少しでも近づけたら最高だ。
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