2010.4.24 |
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高校生が感動した「論語」 |
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慶応高校人気1教諭の、佐久協(さくやすし)氏の心に響く言葉より…
冉求(ぜんきゅう)曰く、
子の道を説(よろこ)ばざるに非ず。
力足(た)らざればなり。
子曰く、力足らざるものは、中道にして廃す。
今、汝(なんじ)は画(かぎ)れり。
弟子の冉有(ぜんゆう)が、
「先生のご説には大賛成ですが、
それを実行するのは、私には力不足でできません」というから、
「『出来ない』というのは途中までやって、
ぶっ倒れたものが言うセリフだよ。
お前のは、『出来ない』ではなく、『やらない』の言い訳じゃないか。
自分で自分をダメ人間あつかいしているのと同じだぞ」
と諭(さと)してやったよ。
『高校生が感動した「論語」』祥伝社新書
佐久先生は、高校で漢文を担当していた頃、
「論語」を選択した生徒がすぐに飽きてしまわないように色々な工夫をした。
孔子の言葉を、あたかも自分が孔子であり、
生徒が弟子であるかのごとく講読してみたら、生徒は非常に興味を示したという。
それで、このような今までとはまったく違う、聖典らしくない、くだけた解釈となった。
『出来ない』というのは途中までやって、ぶっ倒れたものが言うセリフ。
確かに、やる前から「出来ない」、「難しい」、「絶対無理」という人は多い。
出来ない理由、難しい訳(わけ)、無理な理由を次から次へと出す。
「どうしたらできるのか」、を探す人は少ない。
それが例え、針の穴を通すような困難なことであろうと、
成功の可能性に賭け、前に進む人は尊い。
世のなかに「絶対」はないのだ。
失敗を山ほど築き、絶望の淵(ふち)を何度も見た人だけが、
成功の美酒を飲むことができる。
人は誰でも、可能性を持っている。
何も挑戦もしないで、
出来ないと決め付けていてはあまりに寂しい人生となってしまう。
子供の頃みた途方もない夢をもう一度思い出し、
夢を語り、できることから始める…
たとえ、ぶっ倒れてもいい、小さな一歩を踏み出してみたい。
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