2009.12.31 |
|
歳暮(さいぼ) |
|
安岡正篤師の名著「経世瑣言」(けいせいさげん)の中から、
大晦日(おおみそか)の心に響く言葉より…
ここにまた年が暮れる。
しずかに思えば思うほど、驚くべき年であった。
歴史にもかつてなかった大規模な、深刻極まりない
世界的動乱の年であった。
一年の計は元旦にありという。
元旦に当たって一年の計を立てるその前に、
これほどの年を送るにふさわしく、
何人も真剣な内省と奮発とをもちたいものである。
まず自ら問え、われらの生活に純真な感激があったかと。
この世界的大変転期にあたって、限りなく上天の語り、
人間の訴えたるただ中に、われらの心胸は
せめてどれだけの受信力を持ちえたか。
みな多忙であるが、それも感激の躍動にあらずして、
混迷の狂騒に過ぎぬ多忙ではなかったか。
狂人走れば不狂人もまた走る。
われもその仲間ではなかったか。
天下国家を口にしつつ、実は激変する時世に埋没しまいとして、
或いは風雲に乗じて快を取ろう、いわゆる功名富貴、
手に唾して取るべしというような 投機的利己心から、
無知の良民をみだしたようなことはなかったか。
自分はさしたる才芸もなく、心より世をも人をも思うことなく、
これはという奉公も出来ぬ身でありながら、いたずらに世を呪い、
人を怨み、不平を吐いて自ら喜ぶようなことはなかったか。
感激は昂奮(こうふん)ではない。
感激感激という言葉がいたるところ人の口をついて発するが、
多くは真の感激にあらずして、一時の昂奮に過ぎぬ。
昂奮はやがて疲労、消沈、瞋恚、愚痴、怨嗟などに陥ってゆく。
現代を静察するに、上は大臣より下は匹夫まで、
ひとしくあがり気味である。
来正月を控えて、この歳暮にとにかく、どっしりと落ちつこうではないか。
(注)瞋恚(しんい)とは、怒り、憎しみ。
(注)怨嗟(えんさ)とは、うらみ、嘆くこと。
『経世瑣言』(致知出版)より抜粋引用
歳暮は、「さいぼ」とも「せいぼ」とも言うが、
年の暮れ、年末のこと。
安岡師は、感激と昂奮は違うという。
多くの人が騒ぐから、己も騒ぐという、
付和雷同の昂奮を、感動とは言わない。
特に、リーダーが間違った昂奮をすると、
周囲の人を巻き添えにし、人心を惑わす。
自ら、実力もないのに、不平不満を募らせ、
大きな声で、愚痴や、恨みをいい、
多くの人に悪影響を与えてこなかったか。
誰かを口汚く批判する人に、
「では、あなたが代わりにやってみたら」
と言うと、代わりにできる人は皆無だ。
しかし、本当は…
「千万人と雖(いえど)も我往(われゆ)かん」(孟子)
大変動期においては、リーダーは口先だけでなく、
千万人に敵に対してもたった一人で向っていく、
の気概と実行力が必要なのだ。
人に左右されない、
確固とした独自の意見や、考え方をもつこと。
それは、本物に深く感激することであり、
自らの受信力を高めることでもある。
この受信力という、感受性や感性がなければ、
自分独自の軸は生まれない。
我々は、何か大きな事態に直面すると、たいてい
「あがり気味」、の昂奮状態になってしまう。
大晦日の一時、来(こ)し方を省みて、正月に向け、
今一度、どっしりと構えることが必要ではないだろうか。 |
|
|